【コラム第10回】ニーチェと私

 昭和24年、私は新潟市の古町通りにある小さなお宮の宮司の長男として生まれました。現在私が宮司をしている愛宕神社と神明宮です。愛宕神社は私で18代目、神明宮は14代目になります。宮司を継ぐということは当然のことでした。

 小さい頃から、祖父に神様の話や宇宙の話、また、人間とは何ぞや・・・そんな話を聞かされて育ってきました。物心ついたときには、当たり前のように神社の仕事を手伝っていました。当時の古町は、新潟一の繁華街、そこに住む氏子さんは3000軒ほどありました。私は小さい頃から神社の息子としてこの街の人々と接してきました。親父が氏子さんのお宅を回り、春祭り・秋祭り・節分・正月のご寄付を戴き、私がお返しのお札や御神酒・御菓子などを自転車に積んで配りました。
 年末年始は、今でも池田家を上げて大祓式を運営致しますが、当時もそれぞれ役割がありました。私の役割は、人形(ひとがた)を一軒一軒お配りしたり、年末年始夜通し、お札やしめ縄を燃やすための浄火を絶やさないようにする「火の番」をしたりすることでした。

 毎年このようなことを繰り返すうち、お祭りも皆さんのご寄付で成り立っており、御祓いで自分の家の生活ができるのも神様という目に見えないものに対して氏子さんがお金を出してくださるからだとわかるようになりました。神様や氏子さんの心に、自然とありがたい気持ちを持つようになったものです。目に見えない神様と向き合いながら生きていましたし、その神様によって生計を立てている現実がありましたので、お宮の息子として跡を継ぐことについて小さい頃は何の疑問も持っていませんでした。

 しかし、青年期になると、神社の跡を継ぐ生き方だけでなく、他にも選択肢があるのではないかと感じるようになってきました。戦後しばらくは、第二次世界大戦の敗北の大きな原因の1つが神道にもあるのではないかということで、神道を否定するような風潮がありました。日教組に入っている先生も多く、デモなどの政治的活動に参加し学校を休校にすることもしばしばありました。中には、「共産主義が世界を救う。」というようなことを授業中に平気で生徒に言う先生もいたくらいです。まして、神社や神道というと頭から馬鹿にしたような態度をとる先生もいました。そんな雰囲気が当時は蔓延していたのです。そのような風潮では、同世代の若者がお宮の前を通っても一礼をするわけがありません。また、その時期には、新潟島(古町通りがある地域)に居住する昔からの住人がどんどん郊外に家を建てて移り住んで行ったことも重なり、氏子さんも疎遠になっていきました。新しく空き店舗に入られた方にお祭りのご寄付をお願いしても、「なんでそんなことにお金を出さなければならないんだ。」と言われたりしました。町のど真ん中のお宮でしたので、その衰退と神道離れによって土地の人との心の交流が薄れていくのを肌で感じました。寂しさと同時に宮司という職業の将来性に不安を抱くようになっていきました。

 高校生の頃には、なんで自分の運命は初めから決まっているのだろうと疑問に思い、周りに完全に反発するようになりました。お宮の息子である私は、特に神様とそれまで向き合ってきて、その人生を否定されるような時代の雰囲気の中で、自分がどう生きるべきかわからなかったのです。
 「人間とはなんぞや。ましてや神とは。宇宙とは。宇宙の果てには何があるんだろう。」
 「自分はどう生きたらいいのだろう。人生とは何だろう。」
 思索にふけり、本当に毎日が憂鬱でした。

 そんな漠然とした不安な思いから、マルクス、様々な哲学、仏教、キリスト教など様々な宗教の本、そして宇宙の本などを読むようになりました。それぞれの組合の活動とか宗教の集まりにも覗き込むように参加したりしました。宇宙の果てを想像しても何をしてもわかりません。銀河系があって、その外に何々系があって、何億光年に何々系が発見された・・・とあっても、ではその先は何なのだろうということは、先生にも答えられませんでした。それは、最終的に無限という言葉で表され、あるときはそれを神と言ったりします。誰の本を読んでも答えがわかるはずもなく、実は人は、宇宙のことや神のこと、人間のこと、人間の存在なんてよくわからないで過ごしているのかもしれないと感じました。結局、私は、わからないということを確かめたかっただけだったのかもしれません。

 精神的放浪の中、私はニーチェに出会いました。ニーチェは、1844年、ドイツ・ザクゼン地方の小さな村レッケンでキリスト教プロテスタントであるルター派の裕福な牧師の家系に生まれた哲学者です。ニーチェが5歳のとき、牧師であった父親が怪我で死に、また、それを追うように2歳の弟が病死しました。幼くして度重なる身内の死に接したことはその後の彼の「生」の哲学の追及に影響を及ぼしていると言われています。また、祖母、母、おば、妹などの女性ばかりに囲まれた厳格なプロテスタントの教えの中で育ったとされていて、それが後のキリスト教道徳に対する強い反発心を芽生えさせたとも言われています。有名な永劫回帰説は、生きていることの苦悩を来世での解決に委ねてしまうキリスト教の考え方を否定し、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという概念です。それまでの哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えました。人生とは、と悩みながら考え、44歳の時に発狂、その後11年間ほぼ廃人状態で狂気から目覚めることなく満55歳10ヶ月で亡くなったとされています。

 彼が最期に「これが人生か、さればもう一度」と言い遺しました。
 いろいろな解釈があると思いますが、私は、この言葉を知り、今まで暗く悩んできた全てのことの答えがそこにあるような気がし、目の前が開けたような気がしました。
 「これほど人生とは何だろうと悩み苦しんだ人が『もう一度』と言うのだから、人生は面白く価値ある楽しいものなのだろう。人生というものが結局死ぬ間際までわからないとしたら、一生かかって考えればいいことだ。まずは、前向きに人生を捉えて生きてみよう。」

 素直な気持ちで親父に「お宮の跡を継ぐ。」と言えたとき、私は18歳でした。

池田 弘