【コラム第62回】 「地域主権」はなぜ必要なのか

 今回は「地域主権」がなぜ必要なのか考えてみたいと思います。

 人は一人では生きていけません。いま自分がここに存在しているのは、祖先から脈々と受け継がれている命のつながりがあるからです。また、これまで生きてこられたのも、まわりの人や環境のサポートがあればこそです。そう考えると「家族」や「故郷」との関わりは、幸福感の充足の大事なポイントであることがわかります。

 ところが、日本は明治以降、そこにあまり配慮しない国家運営を行ってきました。「中央集権」という仕組みは、まさしくその象徴のようなものです。
 中央集権のベースには、「株式会社日本」とでもいうべき考え方があります。効率重視の考え方で一部の地域にお金と人材を集中させて早期発展を促し、先行する欧米に対抗しようとしたのです。
 そして日本の経済は、この方法で奇跡的な成長を遂げることができました。この仕組みがうまく機能し、戦後の混乱から一転して高度経済成長期を迎えることができたのです。

 中央集権の仕組みのもとでは、成長が期待できる産業の中枢機能は、ほとんど一部の大都市に置かれました。一方、地方には生産拠点としての工場や下請け工場が置かれ、あるいは働く人材を提供するといった形で成長を支える役割を担いました。
 大都市に大企業の中枢機能が集中する一方で、地方には大企業の工場ないし下請け工場、あるいは古くからの地場産業がかろうじてある程度という今の状況は、このようにしてできあがりました。
 そのような仕組みの中、均衡ある国土発展の美名のもと、地方には建設・土木を中心に公共事業費が投入され、表面的には経済が活性化されているように見えました。
 しかし公共事業への過度の依存は、かつて地域経済を支えていた農業や漁業の衰退を招きました。特産品を柱とした町おこしを行うような取り組みをするところもまれで、衰退していくこれらの産業に従事していた人は、工場の季節労働者や、土木作業など公共事業の作業員になることで生計を立てるというのがふつうでした。
 いずれにしても、大都市と地方の経済格差の構造は、このような産業構造の中で広がっていきました。

 これは形として明らかにいびつですが、経済が好調で日本全体が潤っていた時代はそれほど問題になりませんでした。稼いだお金は教育や福祉、あるいは公共事業などの形で地方にも分配していたし、それらによって大都市と地方の格差をある程度までは解消することができたからです。
 その際、政治家が中央と地方の介在役を務めました。これが「古い政治」といわれる利権の構造です。

 細かい問題をいえばキリがありませんが、中央集権という仕組みが日本の発展に大きく寄与したのは事実です。この仕組みによって日本は、明治維新のときには他国から著しく遅れていた状態を改善させてきたし、戦後の混乱からいち早く復興を遂げてきたのです。
 日本の経済をGDPで世界2位という位置にまで押し上げたのは、中央集権という仕組みの中で、有望かつ得意な産業を選択して力と人材を注いだ成果なのです。

 とはいえ、幸福感の充足ということで考えると、この仕組みは必ずしもうまく機能していたとはいえません。
 物質的な豊かさは幸福感の充足には欠かせないもので、経済発展はこれをもたらしました。一方で、それでは決して満たされない気持ちもあります。それが冒頭で話した家族や地域との関わりです。
 一部の大都市に人材を集めることは、結果としてこの家族や故郷とのつながりを断つことにつながりました。これによって幸福感が満たされるどころか、むしろ飢餓感が高められています。これでは幸福とはいえません。

 この家族や故郷とのつながりを求める気持ちは人類共通のものです。近年、アメリカでは社会的に成功している黒人が、自らのルーツを訪ねて、祖先が奴隷として連れてこられる前に住んでいたアフリカの地を旅行するケースが増えているそうです。彼らを突き動かしているのは、やはり豊かな生活を手に入れるだけでは得られない、人間が本質的に求めている充足感を得たいという気持ちなのでしょう。
 アメリカは最も進んだ文明社会を築き上げている国の一つです。そこで社会的な成功を収めることができたのはたいへん素晴らしいことです。しかし、そこでの生活は家族や故郷とのつながりが希薄(きはく)で、「自分の本当の居場所ではない」という満たされない気持ちを感じることがあるようです。これは移民社会であるアメリカならではなのでしょうが、黒人にかぎらずイタリアやユダヤなど多くの移民の子孫たちが等しくそのような気持ちを強く抱いているようです。
 黒人の人たちの間で自分のルーツであるアフリカの地を旅行する機会が増えているのは、まさしくそのためでしょう。不思議なことに、彼らが地元の人たちのお祭りの踊りの輪に入ると、エネルギーを感じて自然に体が動くそうです。これはおそらく人や場所とのつながりの中に「自分の居場所」を実感できるからなのでしょう。

 最近は日本でも、物質的な豊かさだけでは幸福感が充足されず、故郷で家族や地域とつながりながら生活することを望んでいる人が増えています。しかし、地方では豊かな生活を送るための経済基盤をつくるのが難しいので、残念ながら思いがあっても実現するまでになかなか至らないのが実情です。
 故郷を離れて大都市で就職し、結婚して近郊に一軒家やマンションを購入してというふうに生活基盤を完全に移してしまったことで、会社を辞めたところで戻りたくても戻れない状況になっている人がたくさんいます。
 また、本当は故郷で暮らしたいのに、就職先がないのでやむを得ずに両親の元から離れていくというのもよくあります。両親のほうは「子どものため」と考えて送り出していますが、心の中で泣いているのは容易に想像できます。

 物質的な豊かさだけでは満足できず、家族や故郷とのつながりで得られる幸福感を求めている人がたくさんいるのに、社会としてその望みに答えられないというのは問題です。受け皿がないというのであれば、早急にこれをつくる必要があります。
 国家というのは、人々の幸福を実現する役割を担っています。人々の求めている幸福の中身が変わっているのであれば、最も実現しやすいように制度や仕組みを変えることがあってしかるべきです。

 中央集権という仕組みは決して悪いものではありませんでした。しかし、従来のままのやり方では、地方に多くの人たちが暮らせる経済基盤をつくるのが難しいので方向転換が必要です。
 一極集中や全国一律で何かをやる方法では、いまの閉塞感から脱することはできません。求められているのは、地方がそれぞれの特性を活かしながら独自に発展する道への転換で、これには地方に独自の財源と権限を持たせる「地方主権」が不可欠になります。

 むろん地方がお金や権限を持ったところで、すべてがうまくいくとはかぎりません。うまくやるには優秀な人材が不可欠になります。いずれにしても財源と権限がないことには思考も行動も制約されたままなので、改革を始めるスタートラインに立つことさえできません。
 私はこれまで民間レベルの地方再生に力を注いできましたが、幸福感の充足に欠かせない家族や故郷とのつながりを求める人が増えていることは、疲弊する地方の経済には数少ない明るい材料になると見ています。
 求められているのは、人々が望んでいる本当の幸福が得られる方向へ社会の構造を転換することです。それができれば、人々の意識の変化を地方の発展に結びつけられることができるでしょう。

池田 弘