【コラム第60回】 中庸

 今回のテーマは「中庸」です。これは私が「座右の銘」にしている言葉の一つでもあります。

 中庸というのは、考え方や行動が一つの立場に偏らずに中正であるとか、過不足がなく極端に走らない、といった意味です。
 儒教の四書の一つに数えられているので東洋的な思想と思われがちですが、同様の考え方はギリシア哲学にもあります。つまり中庸は、洋の東西を問わず、人間の重要な徳目の一つになっている考え方なのです。

 人間の考え方や好みは様々です。私たちの社会は、いろんな考えや好みを持っている人が集まりながら形成されています。
 たくさんの人が集まると、それだけ意見はまとまりにくくなります。共通点が多い日本人同士でさえ、国政の場で何かを決めるときにはいつも混乱します。これが生活習慣や言語が異なる人たちが集まっている国際社会なら、なおさらのことです。

 国際社会のような複雑な関係は、私たちの身近なところでは滅多に見られません。しかし、異なる考え方がたった二つあることで、激しくぶつかり合うことはよくあります。
 こういう場合、お互いが自分の利益ばかりを主張していたら、話は絶対にまとまりません。「イエスかノー」という極端な考え方をするのではなく、「イエスでもありノーでもある」という柔軟な考え方をしたほうが、間違いなく問題は解決しやすくなります。

 日本ではこういうとき、よく「足して2で割る」という解決の仕方がなされます。この解決法で導き出された答えは、双方に利益と不利益があるので、いかにも公平であるかのように見えます。そして、これが中庸であると考えている人が多いようです。
 しかし、これは単なる妥協であって、中庸とはちょっとちがいます。足して2で割ることでうまくいくことが多いのは事実ですが、これでは双方に利益よりも不利益を多くもたらすことも出てきます。
 実際、政治の世界では、このような妥協の仕方で誰の利益にもならないことが平然と行われることがあります。確かにそれでその場はうまく収まりますが、そのためだけにこの解決策をとらなければいけないとすると、これはもう本末転倒です。

 そもそも異なる意見を持つ人たちは、それぞれが求めていることを実現したいと考えています。お互いの思いを貫くことは無用な摩擦につながるので、話し合いによって解決するというのは、同じ社会に生きる者の態度として正しいものです。
 しかし、そのときの最適解は、ただお互いの主張を足して2で割るような単純なものではありません。最終的にはお互いが妥協しなければならないにしても、それぞれの思いを尊重しつつ、それでいて小異を捨てて大同につく姿勢になれたときに、お互いが納得できる最高の答えを導き出せるということではないでしょうか。

 私流の言い方をすると、このときのポイントは「理念の高さ」です。目的が崇高なものであると、小異を捨てることが意外に躊躇なくできます。それぞれの利益は予想より小さくても、社会全体として見たときの利益がより大きければ、主張の中の一部分を譲ることに価値を見い出すこともできるでしょう。
 そもそも人間一人の力には限界があります。とくに大きな目標を実現させたいときにはまわりの協力が不可欠で、自分の利益だけ主張していては絶対に実現できません。
 そのとき大切なのは、理念を大事にしつつも、譲れるところでは妥協することです。そして、大局的な見方をして、そのあたりのバランスをうまくとりながらうまくやるのが、まさしく中庸なのではないでしょうか。

池田 弘