【コラム第79回】 新潟芸妓さんは新潟の宝

 「新潟の宝」は何ですかと問われて、真っ先に思いつく一つが「新潟芸妓」です。まさに「柳都」新潟に相応しい文化を、守り育ててくれているのが芸妓さんです。もし芸妓さんがいなかったら、どれほど新潟が淋しくなることでしょうか。お城なき「湊町新潟」に、独特の文化を育て、大いに華を添えてくれているのが、料亭と芸妓さんだと思います。
 江戸から明治にかけて新潟芸妓は、京都、新橋と共に「日本三大芸妓」と並び称された、高い格式を持ちます。江戸時代の新潟は、日本一のコメの産地を背景に、北前船の最大の寄港地として、出船入船で賑わいました。日本中から人が集まり、古町界隈には粋な料亭が立ち並んでいました。
 新潟芸妓は天保年間(1830~1843)には確かな存在になり、港町文化と共に育っていきました。お堀が埋め立てられる前は、柳の下を歩く芸妓さんの姿が良い風情を醸し出したと言います。
 新潟芸妓の踊りを指導する「市山流」は、日本舞踊の家元としては珍しく地方の新潟に本拠を構えています。さらに「藤間流」なども加え、厳しいお稽古をこなしてきた芸妓さんたちが、新潟のおもてなしの文化を支えてきました。

 新潟で堀が埋め立てられて行くのと歩調を合わせるかのように、最盛期には400人を数えたという芸妓さんもどんどん数を減らし、後継者不足から存続の危機に立たされます。そんな中、新潟芸妓さんを存続させようと、1987年に地元の有力企業が出資をして誕生したのが「柳都振興株式会社」、全国初の芸妓さんの株式会社でした。
 今「柳都振興株式会社」に所属している芸妓さんは、留袖さん4人と振袖さん6人。彼女たちは、日本舞踊はもちろん、長唄や三味線の厳しい修行で芸を磨いています。今では日本国内だけでなく、海外でのイベントでもその芸を披露し高い評価を得るようになりました。

 私が宮司を務める愛宕神社は、新潟芸妓さんと浅からぬ因縁があります。愛宕神社には「明和義人」が祀られています。江戸時代に長岡藩の圧政に抗議し、町民自治を行いその首謀者として斬首された「涌井藤四郎」を「明和義人」として祀っているのです。
 義人たちの事を表だって口にするのは憚られた中、その偉業を語り伝えてきたのが新潟芸妓さんでした。
 愛宕神社のある上古町で毎年晩夏に行われる「明和義人祭」では、芸妓さんたちも参加し、舞を披露してくれます。新潟の素晴らしい物を伝えてくれる芸妓さんたち、まさに新潟の宝です。
 写真は、先日新潟市の料亭鍋茶屋で「BOSS」という雑誌の取材を受けた際のものです。「私の好きなもの」というコーナーの取材で、私が好きなものとして上げたのが新潟芸妓さんだった事から、それでは新潟で取材しましょう、という事になりました。4月22日発売の月刊「BOSS」6月号で掲載されるという事ですので、ぜひご覧いただければと思います。

池田 弘